初期ルネサンス絵画の展開(その三) 

初期ルネッサンス絵画の展開(その三)

ピエロ デッラ フランチェスカ  1440~1470半ばに活動

PIERO DELLA FRANCESCA
(b. 1416, Borgo San Sepolcro, d. 1492, Borgo San Sepolcro)

ピエロは、サン セポルクロで生まれ、故郷の他、ウルビーノ、リミニなどイタリア中央部の小都市で活動をした。ドメニコ ヴェネティアーノの弟子

カスターニョとの共通点は

  1. 1440同時代の活動である
  2. ドメニコ・ヴェネティアーノと密接に関係する(ピエロは弟子であるが、カスターニョは弟子か共同制作者かはっきりしない)

カスターニョとの相違点に焦点を当てて鑑賞してゆく。

カスターニョはマザッチョを正当に素直に継承している。すなわち、正確な線遠近法、光を入れる、人体表現のリアリズム(衣の下の肉体の表現など)を素直に引き継いでいる様式である。ピエロはどうだろうか?

ピエロ デッラ フランチェスカの活動期を3期に分割

  1. 第1段階 40年~52年
  2. 第2段階 52年~62年アレツオのサン・フランチェスコ壁画制作約10年
  3. 第3段階 62年~75年

 

  1. 第1段階 40年~55年

初期の代表作ということが判断がつきがたい。

「聖シジスモンドとシジスモンド・マラテスタ」 リミニ

  • St Sigismund and Sigismondo Pandolfo Malatesta  ( 1451)
    Fresco, 257 x 345 cm  Tempio Malatestiano, Rimini

年代はハッキリしない。この絵はリミニの領主シジスモンド・マラテスタのために、the Tempio Malatestianoとして知られる領主の家族を祭る教会、通称、マラテスタ家の神殿の祭壇画として描かれた。領主 シジスモンド マラテスタ (1429~1468)は道徳的には悪い人、4回結婚した。一人は殺した。4人目のIsottaと上手くいった。

若い王子が彼の守護聖人である聖シジスモンドの前に跪いている。王子は真横を向いていて、守護聖人も完全に正面は向いていない。保存が悪く顔以外は輪郭がわかる程度である。

教会のこと

サンフランチェスコ聖堂(テンピア マラテェスティアーノ:マラテェスタの神殿)  建築設計 アルベルティ

1450年頃、レオン バティスタ アルベルティに既存13cのサン フランチェスコを改築させて マラテスタ家の菩提寺としてサン フランチェスコ教会をより豪華なものにした。自分をアウグスツスに見立てようとして、ローマ時代の神殿のようにしたいと希望。キリスト教会に異教の殻を被せた。教皇ピウス2世に咎められ破門された。(真実は、言いがかりで排斥の種に使われたかもしれない)教養はあった人、1468年に死亡。教会改築は未完に終わる。(正面上部旧教会が見える)

「キリストの鞭打ち」(‘52)

  • The Flagellation   c. 1452
  • Oil and tempera on panel, 59 x 82 cm
    Galleria Nazionale delle Marche, Urbino

ピエロの代表的な作品の一つ。最初のウルビーノ滞在中に製作された。主題はキリストの鞭打ちだが、前景手前右側に3人の登場人物を居ている。画家は同時代の主要な出来事を現す副主題を込めているらしいが、現代では分りにくい。前の3人の人物の意味?真ん中の人だけが質素な身なりで聖人らしい。コンスタンチノポリスに差し迫ったトルコの攻勢を受けて、東方の教会と西方の教会の再統合・和解の会合( the reconciliation) の話題が込められているという説もある。建築モチーフによる線遠近法を使って奥行きを深く表現している。

特徴 キリストを一番奥に配置して見るものの目の動きを誘い出す。ウッチェロの《サンタ・マリア・ノベッラ聖堂の付属修道院(ドミニコ会)の壁画》の第4カンパータの《ノアの箱舟》と同様の寓意がこめられたという説、キリスト教会は11Cに分離していたものを再度あわせようという動きがあった。エウゲニウス4世(右の箱舟)の両者がフィレンツェで会合、その意を絵に込めた?

《カスターニョの聖母子像》 フィレンツェ 旧コンティーニ ボナコッシ・コレクション(ピッティ宮の中)   一般公開をしていない

Madonna and Child with Saints   c. 1445
Fresco, 290 x 212 cm   Contini Bonacossi Collection, Florence

人体表現のリアリティがあり衣の内の表現にはモデルを使用したと言われる、光の取り入れはフランドルからの影響である。

  • ドメニコ・ヴェネティアーノの「サンタ・ルチアの祭壇画」Palazzo Pitti
  • The Madonna and Child with Saints c. 1445
    Tempera on wood, 209 x 216 cm
    Galleria degli Uffizi, Florence

光、遠近法、衣のひだ;マザッチョの特徴と類似 但しルチアの首の長さに注目、 (ピエロはヴェネティアーノの弟子)

  1. ウフィツィの初期ルネッサンスの部屋に展示されている。
  2. マザッチョを受け継いだ上でより世俗的になってきている、衣の表現が違う-ひだの中の線の描写、肖像だけでなく細かい装飾をきっちりと描きこんでいる
  3. さらに、サークラ・コンベルサチオーネ(聖会話)の採用:同じ板の中に聖母子と聖人とを一緒に描きこむ、依頼者の肖像も描きこみ、(但し子供として;信仰の世界の位の差を意味する描き方)
  4. 線遠近法による空間の作り方(消失点が中央にある)、・・マザッチョの特徴と一致

「キリストの洗礼」(‘40~45)   ピエロ デッラ フランチェスコ 

Baptism of Christ   1448-50
Egg tempera on poplar panel, 167 x 116 cm
National Gallery, London

絵画への遠近法の取込み法を著した人。――顔の図面化;顔の描き方の図法を編み出した。

この絵は、生まれた町のキオク聖堂サンジョバンニ聖堂の多翼の中央パネルとして、他翼のパネルは別人が描いた。趣が異なる。

構図の定め方には数学的な考察の上で纏めたと思われる

**絵画を描く板を、上部の半円と下部の正方形の組み合わせととらえる

  • ①鳩すなわち聖霊(これが中心)の位置決め–上部の半円の中心点におく
  • ②キリスト像全体すなわちキリストの顔と足の位置決め、正方形の1辺を半径にした円弧の交点に置いた。
  • ③洗礼者ヨハネの位置決め、縦の中心線すなわちキリスト像に対し対象の位置に、ヨハネと木を配置している。
  1. ヨハネの後ろの二人との大きさの関係4;2;1として、人物の大きさの違いで、遠近法による奥行きを出している。
  2. 3人の天使の構図に多様性を出している――向き、衣の形と色、被り物など
  3. ほかにも《聖シジスモンドの前のシジスモンド・マラテスタ》 リミニ マラテスタ神殿(マラテスチアーノ)、《シジスモンド・マラテスタの肖像画》 パリ・ルーブル、 《モンテフェルトロとその妃バティスタの肖像画》ウフィチ、 など横顔を好んで描いた。

「苦行するヒエロニムス」(‘50)ピエロ デッラ フランチェスコ 

The Penance of St Jerome  c. 1450
Panel, 51 x 38 cm  Staatliche Museen, Berlin

マザッチョの改革に影響を受けた3人ではあるが、カスターニョが素直にマザッチョの様式を引き継いだのに対してドメニコ・ヴェネティアーノはさらに独自の空間構成を想像し、彫像性においても抽象化がみられる。

ピエロ・デッラ・フランチェスカは、カスターニョよりはドメニコ・ヴェネティアーノに近い。

《キリストの洗礼》とカスターニョの《十字架像のキリスト》と比較

人体表現が抽象化されている、形態の単純化がさらに徹底しているし、人体、景色、木や柱の形が幾何学的な計算に基づいている。

後にセザンヌが着目、弟子への手紙に「自然は円柱、円錐と三角錐」でとらえよと助言したというエピソードがある。

  • キリストの顔が正面なのに、ヨハネは真横向き、その意味は?
  • 顔はよく似たものにしているのは?

絵画への遠近法の取込み法を著した人。――顔の図面化;顔の描き方の図法を編み出した。

―ピエロ・デ・フランチェスカは当時のフィレンツェでは人気がなかったが、後世のセザンヌマチスなどから評価が高まった画家である。

ピエロ デラ フランチェスコ の代表作

  • 聖十字架伝説(Legend of the True Cross) Arezzo       サン フランシスコ聖堂(Basilica di San Francesco)

  • 内部外観

  

全部で10場面あり、最初の3場面はキリスト以前のお話、最後の10番目に受胎告知。他の多段祭壇画と展開を異にしている。Chronologyの順になっていない。 物語は13cにGenoaのJacobus da Voragineによって編纂された(the Golden Legends)からの引用である。全部を見るのは後の機会に回し、ここでは代表的な場面を見て特徴を知る。

 

  1. ピエロ・デ・フランチェスカが全体を構成する上での図象学的な考えを反映した配置にした。
  2. 数学的思考を持った、線遠近法による空間の出し方に工夫、人物表現にも幾何学的手法を用いた。

[時代背景]東ローマ帝国がイスラムの脅威に晒されて助けを求めたヨセフス(左)とエウゲニウス4世の両者がフィレンツェで会合した。すなわち、1439のコンスタンチノポリス(東ローマ)とローマ(西ローマ)両教会の合議 参照前出《キリストの笞打ち》ウルビーノ マルケ州の国立美術館

このカッペラ マッジョーレの聖十字架物語のような連作を鑑賞する際のポイントは、

  • 主題 (引用した教典や黄金伝説など
  • 様式上の特徴(場面全部の各場面毎に検証)
  • 全体のプログラム、
  • 図象プログラム、
  • 装飾プログラム  を見るという手順で見る

この連作の全体像の様式の違いについては、1452から1462の10年間の制作の展開を通じての様式の変遷がある。(注:この間に不在期間(59~60)(ローマのヴァティカンでの壁画制作(紛失))

はじめ、Bicci di Lorenzo に依頼されたが一部を制作したのみで死亡したため、ピエロ・デッラ・フランチェスコが後を引き継いだ。正面上層の左右2場面は「預言者」、ピエロ以外の手?

上層右側第1場面「アダムの遺言」アダムの死についての4つの物語が描かれている。アダムが死期を悟った時息子のセス(セツ)に指示して大天使ミカエルに身体を清める油を頂きに自分が追われた楽園の門に行かせる。Death of Adam   1452-66
Fresco, 390 x 747 cm   San Francesco, Arezzo

セスは大天使に面会するが、それには直接は応えてもらえずにアダムとイブが楽園時代に禁を犯した知恵の木の実を渡されて、アダムが死んで埋葬する際にはこれをアダムの口に入れるように言われる。セスと家族はアダムを埋葬する際にミカエルのくれた 実をアダムの口に入れる(この絵では実ではなく苗木になっている)。時代が移ってユダヤ人の家長の墓には大きな木が育っている。異時同図4場面。

中層右側 第2場面「聖なる木への崇拝ーソロモン王に拝謁するシバの女王」ソロモン王の時代(BC10c) ダビデの息子ソロモン王を Shebaの女王が表敬し、謁見する。円環構図が特徴である(中心人物を人々が囲む構図)、会見の構図は珍しい(描かれていることが少ない)前例としては洗礼堂(フィレンチェ)の扉の装飾がある。1430年頃から現れた構図。寓意として東西教会の統一会議が背景にある(1439)ピエロはそれを意識した?   Procession of the Queen of Sheba; Meeting between the Queen of Sheba and King Solomon   1452-66
Fresco, 336 x 747 cm  San Francesco, Arezzo

アダムの口から育った聖なる木は、ソロモン王の時代に切り取られて使い道がなかったために川の橋を作る資材と使われる。シバの女王は道すがらこの橋を渡る際に不思議な予感がしてその橋げたに崇拝した。中層正面は第3場面「聖なる木の埋葬」シバの女王からその話を聞いたソロモンは王国の危機につながるかもしれない奇妙な木を橋げたから外して穴に埋葬させる。雲の描き方に注目、マザッチョが雲を描き始めた。

下層正面右の絵第4場面 紀元4世紀の出来事「コンスタンティヌスの夢」。左斜め上からガブリエールがお告げをしている――十字架と共に戦いなさい==。Vision of Constantine   1452-66
Fresco, 329 x 190 cm  San Francesco, Arezzo

構図が大胆である。光の使い方が異なる。夜の風景闇の中の光のコントラストが上手い。質の高い絵である。それ以前の絵画にはなかった様式である。キリスト教徒に光をもたらす意味を含めた。ピエロの「出産の聖母」の映像を比較として見ると良い。ガブリエールの姿を短縮法にして、対角線に働きかける構図。ラファエロがウルビーノからこれを見て参考にした。ローマでの壁画も見ている。1511年以降のラファエロの絵に影響している。ピエロは50年ほど先行していた。ルネッサンスの次の時代につながっていく(先例となった)

下層右側第5場面「ミルヴィオ橋の戦い「battle of Ponte Milvio」」。コンスタンティヌス皇帝はキリスト教を擁護した。どっちつかずの態度をとったマクセンティウスとの戦いにコンスタンティヌスが勝利した戦いの絵。 Constantine’s Victory over Maxentius   1452-66
Fresco, 322 x 764 cm   San Francesco, Arezzo

真ん中にコンスタンチヌスが十字架を持っている。十字架は小さく描いている。キリスト教の増加に対する姿勢のとり方の差を表現。真ん中に蛇行する川を描く。画面下の方、馬の足を多くしっかり描いている。右マクセンティウスが橋を渡って街中に逃げようとして橋が折れて落ちる図 ウッチェロのサンロマーノの戦いと比較(視点が複数)ピエロは視点を統一した(1430頃)

中層正面に第6場面「ユダの拷問」その左側面に第7場面「聖十字架の発見」、ミラノ勅令(313)によるキリスト教の公認が大きく影響している。コンスタンチヌスの母が洗礼を受け、息子の夢のお告げに強く感動。聖十字架を見つけるために、エルサレムまで行く。Finding and Recognition of the True Cross   1452-66
Fresco, 356 x 747 cm  San Francesco, Arezzo

ユダという男が知っていることを聞き、拷問により白状させる図。 Torture of the Jew   1452-66
Fresco, 356 x 193 cm   San Francesco, Arezzo

井戸に漬ける拷問による男の証言でゴルゴダのVenus神殿から三つの十字架を発見(左半分の構図)その後、葬儀の列で死者生きかえりの奇跡が起こるのを試して三つの中から真の十字架を確認する図(右半分の構図) 死者が生き返る奇跡の構図。エルサレムの街並み きれいな円環構図である。

下層左側 第8場面 「ヘラクレイウスの勝利」話は3世紀ほど後 ペルシャのコスロエス王によって聖十字架が盗まれる(AD615)。ビザンティンの皇帝ヘラクレイウスが戦って取り返す話。ペルシャのコスロエス(ホスロー)2世がイエルサレムで十字架を奪い自分の宮廷にもちこみ、右に十字架、左に鶏を置いて自分は神であると称す。東ローマ皇帝ヘラクレイウスはコスロエス(ホスロー)に戦いを挑み奪い返す。画面右隅にコスロエスが処罰を受けている。Battle between Heraclius and Chosroes   1452-66
Fresco, 329 x 747 cm  San Francesco, Arezzo

AD628の出来事。細部に凄惨な残酷な場面がいくつも描かれている。左右の大場面に戦いの絵を向き合わせている。

上層部左側面に第9場面「取り返した聖十字架をエルサレムに返す図」皇帝が、イエスがしたときと同じように自ら十字架をもって裸足になって町に入るところ。 中心の皇帝のところが剥落している。

Exaltation of the Cross   1452-66
Fresco, 390 x 747 cm   San Francesco, Arezzo

はじめ馬上で通過しようとするが、神の声でキリストの謙虚な姿勢を思い返し、皇帝の身分を示すことなく、裸足で謙虚に返還に臨む。

全体構成

装飾プログラム(図像プログラム)――タイポロジー伝統的に知れているテーマを対比させる。 しかし、この絵では、ピエロ自身が考え出したタイポロジーを表現している。組み合わせが絶妙である――前と後の物語――神学的タイポロジー

  • 第5場面と第8場面 戦いの絵
  • 下層正面左側に「受胎告知」右側に「コンスタンティヌスの夢
  • 中層正面右側に 「聖なる木の埋葬」 ソロモンの指示で木を橋から外し埋葬する図 と左側に「ユダの拷問」 穴がモチーフ

正面の4場面は、中央にかけられるキリストの十字架像に背後の連作を繋げる橋渡しの役割を持っている。ピエロは、キリストの磔刑に深く関係する場面をここに持ってきている。

  • 2面モチーフ・・木の橋に対する礼拝の場面とソロモンとの会見の2場面を建築モチーフの柱で区分

壁画の様式について

  •  上層(1452~55)~中層(55~58)~下層(60~62)  での様式の違い

物語の展開が他と異なり、時代順が入り混じっている。様式の変遷を製作期間10年間(1452~62)の様式の変化としてとらえる。この期間に平行して、ミゼルコルディア同心会との契約で、ボルゴ・サンセポルクロの多翼祭壇画(板絵)を制作している(1445~1462)。時代の移りの中で様式に変化があるかどうか、ミゼルコルディアの多翼祭壇画と対比しながら変化を探ることが面白い。

様式の変遷 

  • 上層 (52~55)

ルネッタの絵――最初(アダムの死)と最後(十字架をエルサレムに返還)旧約聖書と新約聖書で確立している。――多少無理なこじつけも感じられるが・・―― アダムの木と十字架で対象にし、構図的には、絵の中央に木を配して類似させている。

 アダムの死 アダムがセツに遺言を告げるところ

  • 人体表現が未熟で稚い素描力が弱い――後ろ向きの人体の足の力のかけ方、腕の表現、エバの表情など稚拙さが感じられる。
  • 円環構図を取り入れてはいるが、空間の出し方が弱い。

中層 (55~58) 大きく変わっている

 聖木への礼拝と橋への礼拝、ヘレナとシバの女王、エルサレムのヴィーナス神殿とソロモンの神殿、画面のモチーフによる2分割、室内と室外、大理石の模様の描き方(カスターニョ風?)十字架の勝利、構図的には勝利するものが左側にあり左から右への流れを出している。

  • 円環構図がきれいに朝待っている。
  • 人物表現が巧みになっている、半円が、ソロモンを中心にしたものと、シバを中心にしたものへレンを中心にしたもので、夫々しっかり出来ている。
  • 女性像が単純化されている。シバを囲む女性たちが、首を長く頭を卵形にして形態を単純化した。
  • 線遠近法を駆使している。
  • カスターニョと同じように、印象的な模様の大理石の化粧版を背景に使う。
  • 中断期間(58,59)=ローマ滞在壁画制作(喪失)下層 (60~62)側面

下層  ピエロの困難への挑戦する姿勢が現れている。

  • 人物の多さが特徴、人物を多く描くと混乱しやすく困難な構図である。ピエロが敢て挑んだ構図である。多くの人物を画面の奥の方までしっかり描いているが、画面の混沌を避けて上手く整理した。
  • 動きがダイナミックになっている。(上層 預言者 ピエロ以外の手が入っている。)立っている足の安定感がやや弱い、衣の襞が硬い、左側が幼稚、これと「聖木を埋める絵」の目と髪が似ている。

中断期間(58,59)=ローマ滞在壁画制作(喪失)

下層 (60~62)側面

「お告げ」をテーマのタイポロジー。左上から右下への流れ。右の「夢の絵」の質が高く、様式的に最も進んだ表現をしている。後の時代に見本になったといってよい。ラファエロも参照。

まとめ

PIEROの代表作である。

助手は何人か居た。正面の上部の預言者像など、右端はPIEROだが 左は助手の手。‘穴’の二つの絵も助手、シバの左の馬を扱うところも助手。

PIEROの描いた時期は

  • 上層  ~52年
  • 中層  ~55
  • 下層  ~58乃至は62

群像の表現、人物の配置の仕方に時代ごとの変化が見られる。

中の層はきわめて整然と配置されている。

サークル コンバルサチオーネがしっかりと構成されている。主役の二人を中心に半円を作って配置する。建築モチーフとも巧く調和している。1450年頃のPIEROが考えていた様式である。

上層は しっかりした企画はまだ出来ていない。

下層は 非常に多くの人を配置、特徴は、足をしっかりと描くこと。

光の使い方が巧い、コンスタンティヌスの夢の場面で、天使の右肩の光る表現がなんとも美しい。また、テントの光は斬新である。

後にラファエロに影響し、ヴァチカンのヘリオドロスの間に描かれた「ペテロの解放」に反映されている。                        聖十字架物語 終わり

後半から晩年の作品を見る

ミゼルコルディア(Mizericordia)祭壇画1444~1464 サンセポルクロ

(ミゼリコルディア同信会と契約)

Polyptych of the Misericordia  1445-1462
Oil and tempera on panel, base 330 cm, height 273 cm
Pinacoteca Comunale, Sansepolcro

San Sepolcro;聖墳墓の町  キリストが埋葬された、という意味。

町の名前の由来

中世に二人の巡礼者がエルサレムからキリストのお墓の一部を持ってきた。ここは古代ローマからの要所であった。アペニー山脈、アドレア海が近く、戦略的に恵まれた土地。古代ローマの基盤があった。

地理的な条件故に歴史上で運命的な展開があったというようなことは、現地に行って、見て聞いて初めてなるほど!と肯ける所がある。

この絵は1445年に ボルゴ サン セポルクロの街の教会の慈善団体からの依頼で描いたもの。当時既に人気を得ていたピエロにとって、3年以内に完成すること、金地背景にすることという二つの注文条件は、生まれ故郷とはいえ承知しがたいものであった。結局、他の仕事の合間を見て描いたので、完成には20年近くの日を要した。したがって、パネルごとに手を付けた年代が違い、それによって様式が変わってゆくのが見て取れる。絵の場所によって時代が大きく違い、したがって様式が異なっている。「マリアの慈愛」がもっとも時代が新しい。1460~62 右側パネル アンデレとベルナルディーノ ベルナルディーノが1450に列聖。衣の襞の表現、顔の表情が上手くなっている。1452

Sts Sebastian and John the Baptist   1445-
Oil and tempera on panel, 108 x 90 cm

もっとも古い絵がメインパネルの左横の聖セバスティアヌスと洗礼者ヨハネ像。(上図)

聖セバスティアヌスの裸体像は、優雅さにおいては劣るものの写実性においてはマザッチョの裸体像に近い。

The Expulsion from the Garden of Eden   1426-27
Fresco, 208 x 88 cm
Cappella Brancacci, Santa Maria del Carmine, Florence

by MASACCIO

Polyptych of the Misericordia: Madonna of Mercy 1460-62
Oil and tempera on panel, 134 x 91 cm
Pinacoteca Comunale, Sansepolcro

最後に描かれた絵が中央パネルの慈愛の聖母像(Madonna della Misericordia)である。依頼者からの厳しい条件である金地背景と新しい時代の様式としてピエロが望む写実描写との矛盾を解決する工夫として、ピエロは聖母が広げたマントの中に写実空間を作り、祭壇画を依頼した同信会の会員たちが輪になって膝まづく姿を写実で表現した。あたかも聖母のマントが教会のアプスのような役割をしている。聖母マリアは正面を向いて立ちその背景は依頼者の言う通り金地背景にした。ピエロの独特の慈愛の聖母像である。

ペルージアの「サンタントニア祭壇画」

「サンタントニオの祭壇画」 

Pieroが 女子修道院に描いた。記録はなかったが、最近記録を発見し、1460年に支払いを受けたことがわかった。

中央の部分 背景が単なる金地ではなく、建築モチーフがある。スペインの画家がやっていた。ピエロはスペインの画家とは1458~59にローマで接触している。Arezzoやミゼルコルディア以降の作品である。

Polyptych of St Anthony   c. 1460
Panel, 338 x 230 cm
Galleria Nazionale dell’Umbria, Perugia

 聖母子後輪がしっかり描かれる、頭の髪のベールが映っているなど写実性の追及が始まっている証、光を意識している、暗から明への動き。

真ん中が特に質が高く、周囲が劣ることから、ピエロは中央のみを制作し、周囲は助手が描いたと推測される。

上部の「受胎告知」 ピエロ 60年代後半か?中の建物の遠近法への拘りが特徴で、柱の数がやたらと多い(10本)。光が計算されて使われている。光と陰の扱い方がすばらしい。Pieroの特徴の一つに為っている。ただ、建物にこだわったあまり、見るものの目が建物に行き過ぎるきらいが出た感じはする?

特徴

単純形態化が消えてより写実的になってくる。

50年代の作品の単純化されどっしりしたモニュメンタルな感じがこの絵には無い、フランドル的な要素が強くなってくる。光輪に厚みがある。

聖母の頭の部分の光輪には頭が反射している。この頃から始まるレオナルド的な光輪は無い。

プレデッラ

フランシスコの奇蹟の物語の聖痕拝受、パドバの聖アントニオの奇蹟、ハンガリーの聖エリザベスの奇蹟(井戸に落ちた男の子を助け出す)この3枚は、上部の側パネルの聖人と対応している。

「バティスタとモンテフェルトロ公の肖像」

Portraits of Federico da Montefeltro and His Wife Battista Sforza  1465-66
Tempera on panel, 47 x 33 cm (each)
Galleria degli Uffizi, Florence

モンテフェルトロ公が42^3才の頃の肖像で、背景にウルビーノの街の様子も描く。

モンテフェルトロ公は、1444にウルビーノ公となり’74にローマ教皇からドーカの称号を受ける。ドーカ=「総督」とか「君主」の意味

ピエロは、ウルビーノに滞在しフランドルの画家や数学者と交流をして刺激を受けたといわれる。

モンテフェルトロ公は元々傭兵隊長であった。そのときの顔の怪我で左側しか見せない。

世俗の君主の肖像画の始まりの時期。リミニ公、シジスモンド・マラテスタなどが残る。

フランドルでは1420~30頃から始まった。イタリアは1450頃からである。イタリアの画家が肖像画で手本にしたのは、ローマ時代のコインからの参照である。

初期には、プロフィールを描く、濃い色で周りを塗りつぶすのが特徴であった。’60頃から変化が現れた。後ろを明るくし、背景に窓から風景を見下ろす様式が使われた。70年代にはやや正面を向いた構図が出る。

妃の肖像の背景は同じマルケ州の田園風景である。40年代は背景に関心が薄い。

肖像画の裏の絵に注目(reverse sides)

(reverse sides)

プラトー・タイプの構図を用いる画面の中位に小高い丘を配置して、その先に遠景の景色を書いて、中間の景色を省略する手法–。小さい板で、深い奥行きまで表現している。

参考として、「聖ヒエロニムスと帰依者」を比較(1445^48)プラトー・タイプは使われていない。

50年代までは、モチーフの大きさの違いで空間を表現した。60年代以降は、空気遠近法すなわち色調の濃いものから次第に淡い色にしていくことで遠くを表現した。プラトー・タイプ、空気遠近法ともフランドルから吸収したもの。

「聖母子と聖人達、モンテフェルトロ」74年以前 ミラノ ブレラ美術館

Madonna and Child with Saints (Montefeltro Altarpiece)
1472-74   Oil and tempera on panel, 248 x 170 cm
Pinacoteca di Brera, Milan

モンテフェルトロが「ドーカ(伯爵)」になる前の絵、キリストの姿、表現に特徴、眠れる幼児キリストは深い哀悼を象徴する。赤い珊瑚の首輪は魔よけの徴(ギリシャ神話に起源)でフランドル的要素。ピエロは、ウルビーノでフランドルの影響を受け、60年代以降の仕事に反映している。フィリッポ・リッピにはフランドルの影響がより強く出る。

建物をしっかり描くのはフィレンツェ流ルネッサンスの特徴。ルネッサンス式建物と人物との大きさのバランスがよく取られたしっかりと計算された遠近法の技法である。やわらかい光が神聖な場面にふさわしい明るい天上の雰囲気をかもし出す。頭上の(駝鳥の)卵はマリアの処女性と、生命の復活の象徴。公の妃バティスタは女児ばかり生んでいたが、やっと男児を出産した後すぐに亡くなった (1472)。ピエロは恩人モンテフェルトロの妻への深い哀悼の気持ちを「眠れる幼児キリスト」のエンジェル・ピエタ的な犠牲に重ね合わせて表現している。この無念の死は祈りにより鎮められ、駝鳥の卵が復活の象徴として思いを託されている。

幾何学研究の一人者としての能力と創造力豊かな画家の素質とが、張り詰めた緊張感と共に一つの主題の中に融合し、深い信仰心が凝縮された名品である。

洗礼者ヨハネ  聖オウグスティヌスの祭壇画のパネル

NYのフリック・コレクションのヨハネの板絵 4人の聖人のパネルの一枚。重い本を支える手の描写は写実が進んでいる、一方で後輪がしっかり描かれている。

Polyptych of St Augustine: St John the Evangelist  c. 1460
Tempera on panel, 132 x 58 cm
Frick Collection, New York

「キリストの復活」  全く記録が残っていない。

元元市庁舎であった。裁判を行ったところ。別の部屋にあったものを市の美術館に持ってきた。

年代が不明 1450年代後半から1460年代前半くらいの作品。

Resurrection  ( 1458-65)
Mural in fresco and tempera, 225 x 200 cm
Pinacoteca Comunale, Sansepolcro

右下の兵士が寄りかかっている石が、‘聖なる墳墓’(サン セポルクロ)を表現しているかもしれない。

左側の木が枯れ木であるが右側の木は繁っている。左から右へ復活の意味を込めている。

左から2番目の兵士は、‘PIEROの自画像’という説もある。

右の兵士が傾けて置かれている、頭が手前に出てくる。短縮法で奥行きを表現するための工夫と思われる。

カスターニョ サンタアポリナーレ フィレンツェ 1447年に似ている。Resurrection (detail=部分)  1447  Fresco
Sant’Apollonia, Florence

1439年にフィレンツェにいる。ドメニコ ベネツィアーノがフィレンツェで仕事をしていた。カスターニョは、ドメニコの弟子という関係があり影響が出ているかもしれない。

イエスのピンクの衣は、Niccolo di Segna 1348年 のイメージ

絵にはフレームを作っている。人工的な柱2本に挟まれたいるのはその工夫。上と下にも鴨居と台を描いた。 修復がされていない。

「Madonna del Parto」  出産の聖母 

Santa Maria a Momentana 教会にあった。

サンセポルクロの近郊の小高い丘の上の城塞都市としてMonterchiの街はある。 Pieroのお母さんの出身地 元元あったところに戻ってきてここにある。製作された年ははっきりしない。1458年頃

Pieroはローマに居たが、1459年11月母が死んだので戻った。 ‘60年頃母を想いながら描いたものと思われる。

Pieroは、その当時出産により亡くなる人が多いので安産の祈願を込めている。

天蓋の模様に柘榴が描かれている、これは受難の象徴ではあるがもう一つ増殖の意味もある。モンテルキの繁栄を願って柘榴を描いた。

聖母のポーズは世俗的に描かれている。二人の天使のポーズは全く同じでカルトーネは同じである。(裏返した)あまり好まれない手法をあえて使った。二人の天使のポーズと表情がなんとも誇らしげである。

モンテルキの妊婦の安産を祈ったもの。モンテルキでは妊婦たちが今でも礼拝に訪れるという。この作品は礼拝の対象にもなっている絵。

天蓋の模様にはセッコ技法も併用されている。右側はそのセッコがはがれている。聖母の目は左右非対称。

  • 「ゼニガリアの聖母」(未完)

 Madonna of Senigallia  c. 1470
Panel, 61 x 53 cm
Galleria Nazionale delle Marche, Urbino

光の指し方が上手い。孔雀の血:不死の象徴 永遠性を表現する

 

「キリストの降誕」75 最晩年の作品 空気遠近法

Nativity   1470-75
Oil on poplar panel, 124 x 123 cm
National Gallery, London

ピエロ デッラ フランチェスコ (了)

初期ルネサンス絵画の展開(その三)を終わる。(その四)では、フィリッポ リッピを観る。

KuniG について

日々見聞きする多くの事柄から自己流の取捨選択により、これまた独善的に普遍性のあると思う事柄に焦点を当てて記録してゆきたい。 当面は、イタリア ルネッサンス 絵画にテーマを絞り、絵の鑑賞とそのために伴う旅日記を記録しよう。先々には日本に戻し、仏像の鑑賞までは広げたいと思う。
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